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誰より遠くへ行きたかった男、キャプテン・クック

更新日:7月2日


キャプテン・クックの大理石の彫像が、クライストチャーチのヴィクトリア広場に立っています。 この彫像は、ニュージーランド建国に貢献した英雄の一人として選ばれ作成されました。 彫像の除幕式は、1932年8月10日でした。


1769年10月6日に、クックはヨーロッパ人としては史上2番目にニュージーランドに到着しました。 一番最初は、1642年にオランダ人のエイベル・タスマンがやって来ていました。


クックは、半年間でニュージーランドの沿岸を測量して、かなり正確な地図を作りました。

ただし、その地図には、はっきり分かる大きなミスが2つありました。 一つは、スチュアート島が南島の南端とつながっているような記載と、クライストチャーチの側にあるバンクス半島を島にしていたことです。 天候や何らかの理由でちゃんとした測量が出来なかったと思われます。 


ジェームズ・クック(James Cook)は、1728年10月27日、ヨークシャー北部のマートン(Marton)という小さな村に生まれた。 家は粘土で出来た質素なコテージだったと言われています。


父親は、農家の小作人として働いていました。 クックも8歳の頃から父親の手伝いをしていました。 利発なクックを見込んだ農場主は、クックを学校へ通わせてくれました。 17歳の時、商売のノウハウを習わせる為に、父親の知人の雑貨屋へ丁稚奉公に出されました。


そこは、ステイス(Staithes)という小さな漁村でした。 クック少年は、暇さえあれば海を眺めていたそうです。 もしかしたら、子供の頃に読んだかもしれないガリバー旅行記(1726年出版)を頭に思い描き、遠い世界を夢見だしていたのではと想像してしまいます。


大きな海を目の前にした時、ステイスの村は、クック少年にとってはあまりにも小さく見えていたに違いありません。


*ちなみに、私はステイスの村が好きです。 クックが居た頃と変わっていないのではと思わす町並みが残っていて、村の小さな砂浜に座って海を眺めている自分を想像するだけで、なんとも心が落ち着く感じがして、もし、イギリス旅行をすることがあるなら、是非、立ち寄ってみたいと思っています。 村には、「The Endeavour」(クックが乗っていた船の名)を付けた可愛いレストランもあり、そこにも寄ってみたいと思っています。


1年半務めた雑貨店だったが、店主に自分の「海への憧れ」の気持ちを伝えました。 優しい店主は、近隣の港町ウィトビー(Whitby)の知り合いの船主を紹介してくれました。


18歳にして、クックは船乗りの一歩を踏み出すことになりました。 船主宅から船乗りになるために必要な事柄を教える地元の学校へ通いました。


1747年2月、ロンドンへ石炭を運ぶ小型船の見習いとして、初めての1ヵ月半に渡る船上暮らしを体験しました。 翌年には、大型の石炭貿易船で1年半海上の人となり、遠くは、ベルギーまで行くことを経験しました。


「遠くまで、遠くまで」とクックの心に答えてくれるような生活が続きました。


1750年、3年間の見習い期間を終了し、晴れて「水兵」と認められました。 クック21歳いでした。 バルト海で活動する貿易船「フレンドシップ号」に乗って働き出しました。


1752年には、昇進テストを優秀な成績で合格して「航海士」になりました。


27歳の時、バルト海の海はクックには狭く感じられていたのか、長くお世話になった船主の元を離れて英国の海軍に行くことを決心しました。


1755年6月17日、クックは、「熟練水兵」として英国海軍に入隊しました。 民間では航海士までなっていたクックでしたが、海軍では熟練水兵からでした。 ただ、クックの運の良いところは、前年から始まっていた七年戦争で、経験者の船乗りが欠乏していたことでした。 


クックは乗船後1ヵ月もしないうちに、「一等航海士」の地位に就きました。そして、英仏海峡周辺の警備に就いている時に2度の大きな対仏戦に遭遇し、その都度に彼の勇気と能力が発揮されたことで、クックは「航海長」へと昇進しました。 29歳になっていました。


1759年、30歳で大型船「HMSペンブローク」号の航海長として船を任されました。まさに夢に見ていたような大型船で、大西洋横断してカナダへと向かうことになりました。


この時、クックは同乗の測量家サミュエル・ホランドから本格的な測量を学でいます。


1759年のケベック包囲戦に加わり、クックは、セントローレンス川河口の測量と海図の作成を任命されます。 敵前での命がけで作った海図は、ウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功に大きく寄与しました。


クックの測量の能力は、一躍、英国海軍本部と、王立協会から注目を受けることとなりました。


1763年、34歳のクックに測量士として、カナダ東部の島、ニューファンドランド島海域の測量の任務がおりました。 ニューファンドランド島海域は、夏季でも常に海霧に覆われ、強風が吹き、冬は極寒となる危険な場所でしたが、「遠くへまで行きたい」というクックの情熱が打ち勝ち、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成されました。 5回の遠征で5年間かかりました。


クックは、「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」とこのころ述べています。


「神がクックの願いを叶えてあげているのか、クックが神に導かれているのか」そのような時が動いていました。





1768年、39歳のクックは、海尉(公式の指揮権を有する正規の海軍士官)になり、 王立協会は、クックを「金星の日面通過」の観測を目的に南太平洋へ派遣することにしました。


当時、世界地図は少しずつ埋まって来ていました。 空白が一番大きなところが南太平洋でした。 この任務を受けた時、クックの喜びは如何ほどだっただろうか。 ヨーロッパ人がまだ行ったことのない場所に、「ガリバー旅行記」のような世界があるのでは?と夢見ていたかもしれません。


南太平洋への冒険に乗っていく船は、クックが船乗りとして第一歩を踏み出した港町ウィトビー(Whitby)で建造されたにエンデバー号(Endeavour)でした。元は石炭運搬船で、小型ではあるが暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた船でした。


1768年8月に乗員94人で英国を出帆したエンデバー号は、南米大陸南端のホーン岬を周り太平洋を横断し、1769年4月に「金星の日面通過」の観測場所のタヒチに到着しました。


天体観測を無事に終了させたクックは、英海軍からの秘密指令を開封しました。そこには、「伝説の南方大陸テラ・アウストラリス(Terra Australis) を探索せよ」という指令が書いてありました。金星観測を理由にライバルの欧州諸国を出し抜いて、南方大陸を発見することで富を手に入れたいという思惑が王立協会にはありました。


タヒチから南下しながら探査していると、ニュージーランドに辿り着きました。 半年かけてニュージーランドの沿岸部を測量し、その後、西への進路を取りオーストラリアの東海岸を発見することになりました。 オーストラリアの東海岸を北上して西へ周りこめることでニューギニアとつながっていないことが判明し、同時にオーストラリアの全体像も掴めました。


1771年6月、クック43歳でイングランドに帰国しました。帰国して直ぐに航海日誌が出版されクックは科学界でも時の人になりましたが、ロンドン社交界では貴族階級の博物学者ジョセフ・バンクスがクックを上回る人気者になっていました。 彼は、全てが自分の手柄のように語っていたそうで。 それを聞いたクックは面白く思わなかったそうです。

*ちなみに、クライストチャーチ側のバンクス半島の名前は、彼の名から取られています。



先の航海の多大なる功績によりクックは、海尉から「海尉艦長」へと昇進しました。


帰国の1年後の1772年7月、クックは第2回の探検航海に再び出帆しました。 王立協会はまだオーストラリアの先に南方大陸があるのではないかと、しつこく考えていました。


オーストラリアから南へ南へと探検航海したクックは、1773年1月17日に西洋人として初めて南極圏に突入しました。あと1歩で南極大陸を発見するところだったが、帆船での南極圏航行は困難を極めた上に、壊血病が流行り始めたことでクックはこれ以上の南下は不可能と決断しましした。 もしこの場所より南に大陸があったとしても、とうてい人が住める場所ではないと思いました。 クックは、まだ目にしない南極大陸の存在を感じていたのかもしれません。


その後、ニュージーランドを経由し、タヒチで水や食料を補給した後、1774年にトンガ、イースター島、ニューカレドニア、バヌアツに上陸し、南米大陸南端を回り南ジョージア島と南サンドウィッチ諸島を発見した。


1775年にイギリスに帰国しました。 クック47歳になっていました。 帰国後に直ちに勅任艦長(ポスト・キャプテン)に昇進しました。同時に海軍を休職し、グリニッジの海軍病院の院長に任命されました。


これだけの航海をすれば、「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」という高ぶる気持ちはなくなって来ていたのではないでしょうか?


クックが誰よりも遠くへと夢見た旅先の現実が、男性たちは貿易のためなら自分の妻や娘をも差し出すことを厭わない、西洋人との接触のせいで堕落してしまった南の島の人々を見るにつけ、「西洋人は何をもたらしたのか。」と悩んでいたのかもしれません。


帰国して1年も経っていない内に、海軍大臣のサンドウィッチ伯から、3回目の航海を勧める知らせを受け取りました。 48歳のクックは旅の疲れがまだ癒されていな方と思われますが、「遠くへ行きたい」という炎がまだ心の隅に残っていたのでしょう。


1776年6月、いつもなら準備に余念がないクックでしたが準備不足のまま3回目の航海へと出るはめになってしまいました。 


第3回目の航海の目的は、北極海を抜けて太平洋と大西洋をつなぐ北西航路を探索することであった。 1745年に英国はこの北西航路の発見者に賞金を出す法律を成立させていました。 その賞金が2万ポンドにまで跳ね上がっていた時に、英国海軍は、この賞金を得ようと考えたと言われています。


アフリカの喜望峰を通り、オーストラリアの南を通り、ニュージーランドを経由してタヒチへと向かいました。 その後、北上して1778年1月にハワイ諸島を発見しました。これは、最初のヨーロッパ人がハワイに到着したことになりました。


カウアイ島に上陸し、時の海軍大臣のサンドウィッチ伯の名前をとり、ハワイを「サンドウィッチ諸島」と命名しました。

*サンドイッチ伯は、「サンドイッチを考案した」と言われている人です。


クック達が上陸した時、ハワイは農耕神のロノを讃えるマカヒキ祭の最中でした。ロノ神は海から現れるという言い伝えがあり、巨大な船は、ロノ神の乗り物だと信じた人々は、クックらを恭しく迎えました。特に艦長であるクックの姿は神として認知され、人々はクックの足下に跪いたそうです。


クックは、この時、本当に神になったのかも知れません。 西洋人とは接触していないこの島の人々を見て、クックこそ、この人々が神々しく見えたのかもしれません。 ある意味天国に迎えられた気がしたのかもしれません。


クックは、この時、後のカメハメハ一世となる25歳の若者を見ていました。198センチの身長を持つ威風堂々としたカメハメハの姿を、「若くて荒々しい戦士」と日誌にその印象を残していました。


その後の北西航路の探索は、ベーリング海峡の氷山と流水に行く手を阻まれ、どうしてもその先に進むのは出来ませんでした。一方で、クックはカリフォルニアからベーリング海峡までの海図を製作し、太平洋の北限探査の空隙を、クックはたった1回の調査でさっさと埋めてしまった。


その後、ハワイに戻り約1ヶ月の滞在の後、クックは北太平洋探検を再開しようと出航するが、強風のため前檣が破損し、補修のためケアラケクア湾に戻らなければならなくなりました。しかし、先住民にしてみれば神の船が壊れるとはという不信感が生まれました。クック一行と先住民の間に緊張が生じることになってしまいました。


1779年2月14日、クックらのカッターボートが村人に盗まれました。 タヒチなどでもよくあることで、返品交渉には人質を取ればたいてい解決していましたので、クックは先住民の長を人質に取ることも考慮して、返品交渉に下船して行きました。 3回目の航海では、今までになく精神状態が不安定だったクックは、高圧的な態度で先住民に接してしまい、クックらの探査隊に長の一人が殺されという噂も広がり、動揺した人々は槍と投石でクックらを攻撃しだしました。 クックらも先住民に向け発砲しました。 騒ぎが大きくなってしまったので、船に退去しようと小舟に向かったクックでしたが、頭を殴られ、波打ち際に倒れたところを刺し殺されてしまいました。


最後にクックが見た景色は、若き日のステイス(Staithes)という小さな漁村で見ていた海景色だったのでは・・・・


「もっと遠くへ」


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