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愛する夫から「小さな奥さん」と呼ばれた女王

最終更新: 7月2日


繁栄を極めて大英帝国を象徴するヴィクトリア女王の銅像が、クライストチャーチのヴィクトリア広場に立っています。(1903年5月24日の「帝国の日)に除幕されました)


女王が生きていた時代と、ニュージーランドが植民地化されていく時が重なっていて、ある意味、ニュージーランドの建国の母的存在になっています。


1819年5月24日、ロンドンのケンジントン宮殿で、ヴィクトリア女王は生まれました。 父親は、英国王ジョージ3世の4男のケント公でした。 ジョージ3世の息子たちはみな放蕩息子で、ケント公もその一人でした。 ヴィクトリアが生まれた頃は、多額の借金を抱えていました。


1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8か月の時に、父ケント公が亡くなりました。1820年1月29日、国王のジョージ3世も崩御しました。 ジョージ4世が国王になりました。 ジョージ4世は、ヴィクトリアの母ケント公妃をあまり好ましく思っていませんでした。


ヴィクトリアは、ケンジントン宮殿での深層で母ケント公妃に大切に育てられました。ヴィクトリアは、母と同じ部屋で寝起きさせられました。 ジョージ3世の放蕩息子たちのようにならないようにと願った母親は、ヴィクトリアを貞潔と道徳を重んじられる女性に育てようとしました。


母親はドイツ語を母国語としていたので、ヴィクトリアも3歳まではドイツ語中心の生活を送りました。その後、英語、フランス語を学習して3か国語を自由に話せるようになりました。


1837年6月20日午前2時20分にウイリアム4世がウインザー城で崩御しました。それを受けて、宮内長官とカンタベリー大主教が、ヴィクトリアが居るケンジントン宮殿へ向かいました。


朝6時に、ヴィクトリアは母親に起こされました。 純白の寝巻のままヴィクトリアは、宮内長官とカンタベリー大主教を引見しました。 彼らはウイリアム国王の崩御を報告し、その場に跪き新女王の手に口づけしました。ヴィクトリアが、英国女王になった瞬間です。ヴィクトリア18歳の時でした。


その時の英国は、他のヨーロッパ諸国に比べて君主権が弱く、内閣や議会の力が強い傾向がありました。


ヴィクトリアの即位の日の日記に、「私が王位につくのが神の思し召しなら、私は全力を挙げて国に対する義務を果たすだろう。私は若いし、多くの点で未経験者である。だが正しいことをしようという善意・欲望においては誰にも負けないと信じている。」と記しています。


即位をしたヴィクトリアは、母から独立して行きました。


女王になり年41万2000ポンド(現在の価値で206億円)を受けれるようになったヴィクトリア女王は、父親が残していった巨額の借金を返済することができました。


即位1年後の1838年6月28日にロンドンのウエストミンスター寺院において戴冠式が挙行されました。 沿道、女王の乗る黄金の馬車へ向かって群衆は、「女王陛下万歳」と叫んでいました。 この戴冠式にオーストリアからシュトラウス1世が参列し、「ヴィクトリア女王讃歌」というウィンナ・ワルツを捧げました。 ヨーロッパ諸国に遅れること20年で、ようやくイギリス社交界においてワルツが受容されました。


1839年10月10日、ヴィクトリア女王の母親ケント公妃の兄エルンスト1世の次男のアルベルト(英語名アルバート)を引見します。 これは、周囲が勝手にアルバートとのお見合いを進めた結果です。


ヴィクトリア女王は、後日再びアルバートを召し、「貴方が私の(結婚の)望みを叶えてくれたらどんなに幸せでしょう」と言って彼女の方からポロポーズをしたと言われています。


ヴィクトリアは昔(1836年)にアルバートと会った事がありました。 その時の彼女の日記に、「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼、美しい鼻と口。顔の表情は魅力的だ。同時に善良さと甘美さと知的さを持っている」と記していました。


1840年2月10日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で結婚式が挙行されました。

*ちなみに、1840年2月6日に、ワイタンギ条約が締結されニュージーランドが正式に大英帝国の植民地になっていました。


貴族社会や社交界からはアルバートは「外国人」として疎まれていました。 ヴィクトリア女王も結婚当初は、アルバートが政治の場に出ることを望まず、公文書を見ることも許可しませんでした。


1841年11月に長男を出産してから繰り返し出産をしたため、1842年頃からヴィクトリア女王は、公文書作成にあたってアルバートの助力を得るようになって行きました。 結果、英国はヴィクトリア女王とアルバートの共同統治に近い状態と化して行きました。


1845年夏にアイルランドでジャガイモ飢饉が発生しました。 100万人が餓死して100万人が新天地アメリカやカナダへ移民して行きました。


ヴィクトリア女王は、ロスチャイルドが主宰する「アイルランドとスコットランドの貧民のための英国救済協会」へ誰よりも沢山寄付金、2000ポンドを寄付しました。


英国のビール首相は、アイルランド人が安い価格の輸入穀物を購入できるよう、保護貿易主義の穀物法を廃止する決議を出しました。 ヴィクトリア女王夫妻も貧しい民衆もそれを支持しましたが、地主貴族や保守党内の抵抗勢力が穀物の自由貿易に強く反対したために廃案になってしまいました。





1851年、世界で最初の国際博覧会がロンドンで開催されました。 「世界の工場」として発展した大英帝国の工業力を誇示する目的もありました。 30万枚のガラスで覆われた巨大な水晶宮(クリスタル・パレス)が建設され、世界30か国から10万点の展示物が飾られました。 ロンドン万博は、140日の期間中にのべ600万人が訪れました。 当時のイギリスの人口の3分の1に相当しました。


*ちなみに、1862年の第2回ロンドン万博で、初めて日本の展示物が登場します。駐日英国公使オールコックが収集したものだったとか。 それを見た江戸幕府の文久遣欧使節の面々は、日本の展示物が骨とう品や雑貨で不満だったそうです。 丁髷、着物の使節団の方が、万博に来た人々の目を引いたことは間違いないと思います。


1850年代後半からアルバートは、徐々に健康を害するようになって行きました。


1858年12月11日、手遅れの腸チフスであることが発覚しました。


1858年12月13日午後遅く、アルバートは危篤状態に陥りました。 ヴィクトリアが、彼の枕元に顔を近づけると、彼女に気付いたアルバートは彼女にキスをして彼女の手を握りました。 弱々しい声で、「私の可愛い小さな奥さん」と声をかけました。


1858年12月14日、朝、回復に向かっているように見えていたアルバートでしたが、正午頃には動くこともできなくなっていました。 アルバートの息が荒くなってくるとヴィクトリアは彼に駆け寄り、「貴方の小さな奥さんですよ」と囁き、彼にキスをしました。


家族が見守る中、アルバートは42歳にして薨去しました。 ヴィクトリアは夫の手をしばらく握り続けていましたが、やがて部屋を飛び出して泣き崩れました。



1887年6月20日、ヴィクトリア女王は在位半世紀を迎え、在位50周年記念式典(ゴールデン・ジュビリー)が挙行されました。 日本からは小松宮彰仁親王が出席されました。


1897年6月20日、在位60周年記念式典(ダイヤモンド・ジュビリー)は、女王の希望で世界各地の植民地の首相や駐留連帯代表者を集め「帝国の祭典」として行われました。日本からは、有栖川宮威仁親王と伊藤博文が出席されました。


ヴィクトリア女王の64年間(ヴィクトリア朝)は、覇道の限りを尽くした結果、大英帝国の領土は、世界の全陸地面積の4分の1になりました。 世界人口の4分の1(4億人)を支配する史上最大の帝国になりました。 64年間の中でイギリス軍が戦闘をしていなかったのは2年だけだったと言われています。


ヴィクトリア女王は、この大英帝国が非白人国家や民族に推し進めた帝国主義を良いことだと信じていました。 「大英帝国が、現地民を教育指導する事が、現地民へ平和を与え飢餓から救うことになる」と信じていたように思えます。 その為には、反抗するものに容赦はしませんでした。


ある意味、このヴィクトリア女王の優しい気持ちの面だけが利用され、被支配民の間に、ヴィクトリア女王を「帝国の母」的存在と植え付けていったのが英国政府だったのかもしれません。


現地の人に慕われた証拠に、歴史上、ヴィクトリア女王ほど多くの地図にその名を刻んだ者はいないと云うことです。


1901年1月22日午後6時半頃、ヴィクトリア女王は崩御しました。 81歳でした。


亡くなる前日、四女のルイーズに、ヴィクトリア女王は、「まだ死にたくない。私にはしなければならないことがまだ残っている。」と言ったそうです。


81歳になった女王が、まだしなければいけなかった事とは?


大英帝国の重みは、「小さな奥さん」には荷が重すぎたのかも・・・・


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