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悲劇の南極探検家スコットの石像


クライストチャーチの街中のエイボン川のほとりに、南極探検家のスコット像が立っています。


何故スコットの像がクライストチャーチに立っているのか?


その事を知るにはスコットが行った南極探検の話を知る必要があります。


ロバート・スコットは、1868年6月6日に英国で生まれました。彼は海軍軍人として成長していきました。


父親が亡くなり、そして弟が病死してしまい、母親と2人の妹の経済的責任がスコットの肩にのしかかって来た時に、ロンドンの路上で王立地理学会の会長のクレメンツ・マーカムと偶然会い、南極探検の話を聞かされました。


数日後、スコットはマーカム邸に現れ、南極探検の隊長になることを熱望しました。


南極探検は、王立地理学会と王立学会の共同事業でした。


スコットは生涯で2度の南極探検を行っています、 第1回南極探検(1901年から1904年)と第2回南極探検(1910年から1913年)です。


第1回南極探検は、スコットが33歳の時に始まりました。この探検でスコットは南緯82度まで達し、人類で一番南端に来た記録を作りました。この探検隊にはのちにスコットのライバルになるアーネスト・シャクルトンも居ました。


1904年9月に英国に戻ったスコットは人気のある英雄になりました。


1908年9月2日に、キャサリン・ブルーズと結婚しました。彼女は、彫刻家でロダン(近代彫刻の父)に師事し、そのサークル仲間にはピカソもいました。


1909年9月14日一人息子のピーター・スコットが生まれました。彼は後に世界自然保護基金(WWF)を創設しました。


1910年6月1日、第2回南極探検へ出発しました。スコット42歳の誕生日を前にしてのことでした。


1911年11月1日、マクマード湾での越冬を終えたスコットの本体が南極点に向けて出発した。これに先立つ10月19日にノルウェーの探検家アムンゼンがクジラ湾から南極点に向けて出発していました。


1912年1月17日、スコットが南極点に到達しました。その後、アムンゼンが残したテントを発見しました。テントの中に手紙があり、その手紙に「自分達が帰路に最悪の事態が起こった時、自分達が最初に南極点に到達したことを知らせて欲しい」という内容の手紙でした。そして、手紙の日付は約1か月前の12月18日付けでした。


1912年1月19日、1387kmの帰還の旅が始まりました。その日のスコットの日記に、「帰りの旅はひどく疲れて単調になるのではないかと心配している」と記していました。


2月16日、スコット隊のエヴァンズが衰弱と凍傷の為、最初に亡くなりました。


スコット隊にとって不幸だったのは、2月、3月にしては悪天候が続いてしまったことでした。おまけに中継基地に貯蔵していた燃油が温度差により破損していました。


3月17日の朝、重度の凍傷を負っていて、自分を見捨てるようにと訴えていたオーツが、「ちょっと外へ出て来る」と言葉を残してテントからブリザードの中へ出て行ってしまいました。その日が彼の32歳の誕生日でした。


3月21日、食料のある中継基地まで後20kmまで戻って来た所で、猛吹雪に見舞われ立ち往生してしまいました。食料は2日分しか残っていませんでした。無残にも吹雪は彼らが亡くなるまで収まることはありませんでした。


3月29日のスコットの日記に「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい」と書き残していました。


スコットの帰還を待ちわびて居たスコット隊が、捜査に向かうことが出来るようになり3人の遺体が発見されたのは、6か月後の夏を迎えた日でした。スコットは親友のウィルソンの胸に手をかけ、もう一方の手にはブラウニングの詩集が握られていました。 43歳没





彼らの体の隣には、16 kgの化石が横たわっていました。これらは初めて南極で発見された木の化石であり、南極がかつて暖かく、他の大陸とつながっていたことを証明することになりました。それから、アムンゼン隊が残した南極点初到達の証拠となる手紙も発見されました。


捜査隊は、オーツの行方も探しましたが、スコットが置いたとみられる寝袋のみが見つかっただけで、オーツの遺体は発見できませんでした。


1913年2月10日にスコット隊はニュージーランドのオアマルに到着し、そこから世界にスコット達の悲劇が伝えられました。


数日のうちに、英国ではスコットが国民の象徴になり、ナショナリズムの精神が喚起されて行きました。大英帝国に自信を取り戻した存在になりました。


2月14日にロンドンのセントポール大聖堂で追悼式が行われました。ロンドン・イブニングニュースでは、このスコットの物語を英国の全学童が読むべきだと訴えました。


1922年、スコットの妻キャサリンは、エドワード・ヤング(後のケネット卿)と結婚しました。スコットは妻宛ての遺書で、相応しい男性と出会えば再婚をするようにと書き残していました。


クライストチャーチとスコットの関係


実はスコットは、第1回南極探検、第2回南極探検の時に、リトルトン港を基地として利用していました。その縁もあり、1913年2月のスコットの死のニュースから1週間以内にクライストチャーチ市長の呼びかけで記念基金を集めることになり、1000ポンド以上が集まりました。そして、スコットの未亡人のキャサリンに手紙を書き、記念碑に関して彼女の考えを尋ねた結果、彼女が亡くなった夫の像を作ることになりました。


最初は、1915年にロンドンに建てられたスコットの銅像のレプリカを作成する予定でしたが、第一次世界大戦によって金属の価格が高騰していたため、大理石で作ることになりましたが、英国への大理石の輸入が禁止されていたため、キャサリンは1916年3月にイタリアに渡りスコットの石像を彫ました。


1916年4月に完成しましたが、戦争のため10月まで出荷できませんでした。


1917年2月9日に、現在の位置に、当時市役所だった建物の方を向いたスコットの石像がお披露目されました。


スコットの石像は、手袋と片方の脚が未完成で、キャサリンは、クライストチャーチに行った時に残りの仕事をしたいと言っていましたが、それは現実になりませんでした。


スコットの石像の台座の碑文には、


「私はこの旅を後悔していません。イギリス人は困難に耐えることが出来ます。お互いに助け合い、死を恐れません。それは永遠に変わらない偉大な勇気です。」


大英帝国をしょっていたスコットらしい言葉だと思います。


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